売ると決めた日の、あの沈黙
こんにちは、才光不動産です。
「売ります」というひとことを言い出すまでに、どれほどの時間がかかるかを、私はこの仕事で何度も目の当たりにしてきました。決断というものは、外から見ると一瞬のように見えます。でも内側では、長い時間をかけて熟成されてきた何かが、ある日静かに形を成す。それが「決断」という瞬間の正体だと思っています。
ある日の午後、ご夫婦がふたりで事務所に来られました。電話で「売りたいと思っている」と聞いていたので、査定の話をするつもりで書類を用意していました。ところが話を始めてまもなく、奥様の手が止まりました。「やっぱり……」という言葉が出て、そのあとしばらく、部屋に沈黙が落ちました。
私はその沈黙を急かしませんでした。次の言葉を促すこともしませんでした。売るか売らないかを決めるのは私の仕事ではなく、その沈黙の中にいるふたりの仕事だと思ったからです。書類はテーブルの上にあるけれど、今は仕舞っておこうと判断した。あの5分間は、そういう時間でした。
決断の重さを、軽く見てはいけない
家を売るという行為は、経済的な取引である以前に「その場所で生きてきた記憶を手放す」という行為でもあります。お子さんが育った家を売るとき、親の形見の家を売るとき、長年経営してきた店舗を手放すとき——。そこには必ず「数字に換算できない何か」が残ります。
不動産業者の中には、お客様の迷いを「早く決めてもらうべき障壁」として扱う人がいます。「今が売り時ですよ」「来月には値段が変わるかもしれません」という言葉で、その迷いを後ろに押しやろうとする。私はその手法を意図的に使いません。なぜなら迷いというのは、決断の邪魔ではなく決断の一部だからです。
迷っているということは、それだけ大切にしてきたということです。簡単に手放せないということは、それだけ深く関わってきたということです。その感情を急かすのは、その人の歴史を軽く扱うことに等しいと私は思っています。だからあの沈黙の間、私は黙って待っていました。

しばらくして、ご主人が口を開きました
5分ほどが過ぎたとき、ご主人が静かに言いました。「子どもたちが世話になった家だから、次の家族にも同じように使ってほしい。それだけです」と。奥様はうなずきました。「売りたくない」ではなく「次の人に大切にしてほしい」という言葉に変わった瞬間、部屋の空気が少し柔らかくなりました。
決断とは、諦めではなく「渡す相手を選ぶ意志」なのかもしれない。そのとき初めてそう思いました。売るという行為を「終わり」として捉えるか「引き継ぎ」として捉えるかで、その後の話し合いの質がまるで変わります。あのご夫婦はあの沈黙の中で「終わり」から「引き継ぎ」へと気持ちが変わったのだと、私は感じました。
査定額より先に聞くべきことがある
その後の話し合いでは、価格の話よりも先に「どんな人に買ってほしいか」という話が長く続きました。子育て世代に住んでほしい。できれば長く住んでくれる人がいい。ペットを飼うのは構わないけれどタバコの臭いだけはつけてほしくない。——そういう話です。法律的には売主がそこまで指定できるわけではありません。でもその希望を聞いておくことが、その後の売却活動の方向性を決める大切な材料になります。
不動産の仕事を「売れればいい」と思っている人にとっては、この手の話は時間の無駄かもしれません。でも私はこの話を丁寧に聞くことで、その物件の「売り方」が変わると信じています。前の住人がどんな想いでその家に住んでいたかを知っている業者と、何も知らない業者とでは、買主への説明の中身がまったく違ってくるからです。

結果として、その家は希望に近い形で売れました
数ヶ月後、その家は3人の子どもを持つ家族に引き渡されました。ご主人が聞いたとき「子育て世代ですか」とだけ確認しました。「そうです、3人います」という返事を聞いたとき、電話越しでもわかるほど声のトーンが変わりました。「よかった」という一言が、すべてを語っていました。
この仕事は、決断の現場に立ち会う仕事です。書類を整えることも大切ですが、その前に「この人は今どこにいるのか」を感じ取ることが、もっと大切だと思っています。沈黙を急かさないこと。それが私の仕事の流儀のひとつです。
売る決断と、買う決断。どちらも人生の節目です。その節目に関わる仕事をしている限り、私は数字よりも先に「その人が今何を感じているか」を大切にしたいと思っています。あの沈黙の5分間が、その確信をより深くしてくれました。
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